株式会社ヨシノ自動車 会長 中西昭博 | トラック業界“鍵人”訪問記 第15回 ヨシノ自動車

トラック業界”鍵人”訪問記 ~共に走ってみませんか?~ 第15回

株式会社ヨシノ自動車 会長 中西昭博

株式会社ヨシノ自動車 会長 中西昭博

ヨシノ自動車を語ろう! 60周年の現在、そしてその先へ

ヨシノ自動車は、この4月に創業より60期を迎えました。トラック1台の運送業者からはじまり自動車整備業、トラック販売業、レンタカー、保険、ボルボトラックの正規代理店と時間とともに業態を増やし、経営は3代にわたります。高度経済成長期の波にのり、オイルショックを体験し、バブル崩壊やリーマンショックの危機を乗り越えてきたヨシノ自動車。弊社は、いかにその事業を継続し続けてきたのでしょうか。第15回目となる今回は、2代目の社長である現会長の中西昭博と、3代目となる現社長の中西俊介の2人の対談をお送りします。60年続く“会社の経営”にせまる必見の対談内容となりました。

写真・薄井一議
デザイン・大島宏之
編集・青木雄介

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トラック1台で始まった創業期

____今回は新年度最初の鍵人訪問記ということと、今年でヨシノ自動車が60期目の節目の年となります。そこでヨシノ自動車60年を振り返りつつ、中西会長とともにその将来を語り合う場にしたいと考えています。ヨシノ自動車は昭和34年創業ですね。

会長:はい。私の父が会社にしたのが、ちょうど今から60年前となります。最初、父はサラリーマンをしていたのですが、トラック1台で独立しまして運送業者を始めます。当時のこの周辺(川崎市川崎区)は、日本鋼管のお膝元であり企業城下町でした。トラックが非常に多かったものですから、そこに関連する構内作業車などを整備する整備業を始めました。そして今度はお客様からトラックを買いうけて、販売するようになっていきました。時代の流れと、お客様のニーズに合わせて業態を広げていった格好になります。

____そして株式会社化し、 日野自動車との関係を強くしていきますね。

会長:その時代はいすゞ自動車がトラックでは一番売れていました。シェアも50%近くあったのではないでしょうか。当時、日野自動車のトラックは誰も扱わなかったということもあり、地元のディーラーさんを含めて 日野の拡販のために、だぶついていた日野の中古車を販売する会社を立ち上げることになりました。

創業社長の人物像

____ヨシノ自動車の社史を振り返るに、日野自動車との密接な関係性に注目されます。ある意味で、日野自動車の成長とともに歩んできた道のりとも言えるのではないでしょうか。

会長:いやいや。それは大げさですよ(笑)。整備があれば販売もある。そこは循環型のビジネスですから、必要にせまられたビジネスでしたね。なにせ昔のトラックは壊れやすかったんです。過積載も多かったし、長距離を走ったりで、トラックも酷使されるので、代替えの必要性が現在以上にあったんですね。

____会長がヨシノ自動車に入社されたのは何年でしょうか。

会長:今から38年前になりますね。 入社前は日野自動車に在籍していました。メーカーの直販部にいましたから、北海道の札幌に小売で赴任していたり、最終的には汎用エンジンの工程管理なんかもしていましたよ。

____当時、会長は30歳ですね。30歳の節目でヨシノを継ごうと考えていたのですか?

会長:それは偶然なんです。北海道からこっちに戻ってくるにあたり、「そろそろかな」 と判断しましたね。

____なるほど。ちなみに初代の創業社長はどんなタイプの経営者だったのでしょうか?

会長:経営者としては時代のニーズを読むことに長けていて、人を使うことが上手な経営者だったのではないかと思います。自ら販売するタイプではなく、ディーラーや販売店から引っ張ってきた、いわゆる販売のプロと呼ばれる人たちが側近として周りを固めていました。私が入社した当時は、完全な年寄り会社だったんですよ(笑)。

____重鎮が周りをしっかり固めている会社だったんですね。会長が入社された時のヨシノの業務内容は、どんな感じだったのでしょうか。

会長:当時のヨシノ自動車は整備業、中古車販売、新車も販売していました。新車も販売していたのですが日野さんやいすゞさんのサブディーラーとして、なじみのお客様にのみ販売するという限定的な販売の仕方をしていました。

経理で知った会社の内情

____メインのディーラーではないけれども、限定的に新車を販売していたんですね。

会長:そうです。 当時は腕ききの営業マンが集まっていましたので、非常に営業力のある会社でした。日野さんもいすゞさんも、「ヨシノさんが売ってくれるなら」と協力していただいていましたね。私は当時、営業として入社したんですが、片方で中古車の仕入れも担当していました。その数年後、当時の経理部長が心筋梗塞で急逝されました。そこで社長であった父から急きょ「お前が経理をやれ」といわれ、2年間ぐらいやりましたでしょうか。そこで会社の内部がだいぶ見えるようになりましたね。逆に私がこの会社を継ぐにあたって、「現在のこの業態では嫌だ」とはっきり言いました。その当時、ヨシノ自動車は7箇所ぐらい事業所がありました。小売をメインにしていましたから、車を並べて店頭販売するというやり方です。収益性はあるものの、台数が売れないとストックがたまっていってしまう、非常にお金のかかるやり方でした。当時はリース会社があるわけではありませんから、手形販売をしているとそれが不良債権化してしまう事態も多かった。それで7ヶ所あった拠点を3ヶ所にまとめたんです。それで会社が上昇基調に乗れたので、父は私に経営権を渡す判断をしました。

____なるほど。そのタイミングだったのですね。

会長:親父ながら、「なかなか思い切りのいい判断をするな」と思いましたね。この決断力は凄いなと今でも思ってるんです。

あえて薄利多売のレンタカー事業に進出する

____初代会長は会社を継いでもらうために、「経理を学ばせたい」という気持ちもあったのかもしれませんね。

会長:他に誰もいなかったからという理由に他なりませんが、結果、当時お付き合いさせていただいた銀行さんや税理士さんにはすごくお世話になりました。 その後、お互い年を重ねて要職につくことで、コネクションが会社の成長を助けた面はたぶんにあると思います。

____たとえばレンタカー事業を始められましたね。

会長:はい。世の中がいい時は新車需要に傾くんですが、悪い時は中古車需要に傾きます。その時代はまだ「借りる」よりは「買う」時代ですから、我々は、「新車は買えないけど程度の良い中古車が欲しい」という層に向けて、程度の良い高年式の中古車を常に探していました。ただ新車で購入して2、3年で代替えというのはまずありえないですよね。それであれば「自分のところで償却して販売すれば良いビジネスになるのではないだろうか」と考えたんですね。

____それは会長の発想で始まったビジネスだったんですね。

会長:はい。以前からあった発想ではあったのですが、ビジネスとしては薄利多売型です。トラックは高単価なので売り上げも大きいですが、レンタカーはそうはいきません。だから発想はあってもなかなか手が出せない領域だったんですね。現在でも全体の売上で考えれば、整備やレンタカー事業は10%程度です。

社長:そうですね。整備が5パーセント、レンタカーが5パーセントぐらいです。

会長:ただこの5パーセントの事業を継続することによって、お客さんにアピールできて、仕入先のメーカーさんからも販売力を信頼される。だからこそ、この事業を継続していて良かったと心から思っているんです。

「良くない」ときの経営判断

____同じ営業先でも購入の意志がなかったとしたら、レンタカーを提案することができますものね。

会長:そうです。時代は購入からレンタルの時代になりました。建設関連のお客様は特に顕著ですが、自社で持つぐらいならレンタカーで済ませるケースが多いですね。レンタル料金も仕事を受ける時に見積もりに、レンタル料金と表記するのが普通になりました。

____時代の流れと無関係ではないのがよく分かります。さて、ここまでの会長のお話ですが経営者としてみた時、社長はどう感じられましたか。

社長:この60年間、ずっと良かったわけではないんですよね。「良くないな」という時の経営判断があるから現在があると感じています。さっき会長が言っていた「拠点を廃止する」という経営判断は、(僕は初代じゃないから分からないんですが)自分がゼロから立ち上げた事業を現実として不採算だからやめるというのは、「なかなか決断出来ないだろうな」と思うんです。想像するとどうしても「あと1年だけ頑張ろう」とか、こだわってしまうはずなんですね。

____そうですね。その点はやはり2代目である会長は(もちろん思い入れはあったでしょうけれども)、冷静な判断が下せたんですね。

会長:時代的にはオイルショックがあったり、その都度、経済環境は上に下にと目まぐるしく変わるわけです。そんな時に企業の収縮性って、ついていかないものなんですよね。今でも思う時はあるんですよ。「横浜の工場を持っていれば良かったな」とか。ただそこで現在の経済環境を判断して決断しない限り、次はないんですよ。社長以外は、誰も決断できない訳ですから。だからこそ、その決断力は身についていくものだし、経営者は身につけていかなければいけないものだと思います。

____経営者の仕事が決断と言われるゆえんですね。

会長:現在は特にそうですよ。情報化の時代じゃないですか。全てが早くなりすぎているので、決断も早く出さなければいけないですよね。

ボルボ正規代理店の道

____ただ会長は不採算部門を閉鎖しながらも、新たな事業を展開していかれました。それが先ほど伺ったレンタルトラックと、ボルボトラック正規代理店という道ですね。

会長:はい。やはり我々は販売店をやっていて、正規代理店への憧れがあるわけです。国産、輸入車を問わず、乗用車販売のお誘いはあったんですよ。ただそこは「トラックで」という思いがあった。大きいディーラーは、大企業との資本関係があるんです。我々としても、いざそういうチャンスが回ってきた時は「挑戦したいな」と常々考えていました。そしてボルボが本格的に日本に展開するにあたって「40社ぐらい協力会社が欲しい」と打診してきました。全国に店舗と整備を構築するにあたって、神奈川とその周辺は「ヨシノさんにお願いしたい」という事でした。ただ当時のボルボは、非常に問題の多い車でした(笑)。実際に販売して失うお客さんも多かったんですよ。

____同じ時期にダイムラーのアクトロスも入ってきていましたよね。

会長:ダイムラーはもう少し早かったのと、あちらはふそう系列だったんです。元々、ボルボもいすゞが手がける予定でした。それをいすゞが手放して、しばらく空白の期間があった後、本格的にボルボジャパンとして日本上陸を果たしたんですね。それはやはり世界戦略として、日本でボルボトラックが評価されれば「アジア全体で売れる」という目論見があったみたいですね。

なぜトラブルの多いボルボを続けられたのか

____了解しました。そんな国産系ディーラーへの憧れがありつつも始めた、ボルボの正規代理店ですが、御苦労されたんですね。それは単純に車両の問題だったんでしょうか?

会長:はい。そもそもスウェーデンで生まれてヨーロッパの大陸を走るために生まれてきたトラックを、気候が違う日本で使用するというのは、なかなか難しかったようです。当時は電装系のトラブルが非常に多かった。そこで我々も努力しました。24時間の整備体制を敷いたりすることで、お客様も「そこまでしてくれるならば」と購入していただいていたんです。それが現在につながっているといえるでしょう。

社長:僕もその時代を少しだけ味わってるんですよ。僕はちょうど排ガス規制が始まった時代にヨシノ自動車に入社しました。会社も商談の機会が格段に増えていた時代でした。当時は営業のサポートとして、陸運事務所に行ってトラックを登録したりしていたのですが、お客さんに届ける段になって、車が止まってしまったりしていました(笑)。「これ新車なのにな」と。

____本当にそこはすごいと思うんですよね。「営業が売りたくない」と感じてしまうほどトラブルが頻発するトラックとよく付き合ってきたなと感心してしまいます。

会長:従来、中古車販売の仕事をしていますから、トラブルに慣れているところはあったのかもしれませんね。納車した車がトラブルを起こす、それに対処するという経験則は弊社の社員の中に共有されているものだと思います。お客様に「申し訳ありません」と謝りながらも、そのトラブルを解決しようと全力で動く。それを社員全員でフォローしようとする。そういうところはあったのかもしれませんね。

トラブルへの対応力は、ヨシノ自動車のDNA

____それは会社の DNA のようなものだったということですね。

会長:はい。中古トラックは商品としてこちらが万全だと思ってお客様にお渡ししていても、それまでどういう使われ方をしていたかは分からない。そういう不測の事態を織り込み済みで販売しなければいけない商品なんです。ですから現在の時代背景を考えると、新車が好調だから、新車だけ売っていればビジネスとしては成り立ちますよね。そのリスクを背負うぐらいであれば、新車しか売らないという考え方もできるんですね。でもお客様のニーズがそこにある以上、我々としては新車と中古車両方を販売するというスタンスでありたい。ただ現在のトラックはとにかく故障しなくなりましたよ。過積載もないし、速度規制も功を奏して、故障のリスクそのものが減っている現実というのはあります。ただそういった対応力は、創業当時から培ってきた企業風土であると私は思います。

____会長が考えるヨシノ自動車らしさとはどんなことでしょうか?

会長:基本的にトラックに関することは「何でもできる」という体制をつくってきました。そのコンセプトで発展してきた会社ですから、お客様のニーズにマッチするサービスは提供できる。ただ、片方でそのフォローは欠かせません。買っていただいたものに対する責任というのは、売った側として負わなければいけない。 特に弊社のお客様は、物流にしても建設関連にしても中小零細企業のお客様が多い。だからこそ、そこで様々な課題に対応する、フェイス・トゥ・フェイスの対応力が求められてきました。そこがこの会社の一番の「らしさかな」と思いますね。

社長:一対一のコミュニケーションは、すなわち人間同士のコミュニケーションですよね。ビジネスにおいて、トラブルというものは付き物です。その時にどう接するか。そこで棚上げしたり先延ばしにしたりすると、もっと事態を悪くしてしまう。素直にこちらに非があればそこを認めて、真摯に向き合っていかなければいけない。ひとりの人間としての対応力が必要になってくるんですね。

会長:それもこれも、お客様の満足度を追求していくということになると思います。

ボルボトラックはヨシノでなければ直せない

____ヨシノさんはお客の満足度を追求している会社という印象があります。それはボルボの正規代理店だからといってボルボの専業というわけではなく、いろんなトラックに対して門戸を開いているわけです。だからお客に対しての垣根もない気がするんですね。「ウチの客じゃないし」という感覚はないでしょう。お客が「ボルボじゃなくて日野がいい」と言えば、最適な日野を用意してくれる会社ですよね。

会長:そうですね。ただ他のトラックはディーラーさんに持っていけば直せるけど、「ボルボトラックは弊社じゃないと直せない」というプライドも片方にはあります。それは担当もお客さんも分かっていて、その専門的な対応力は期待されますよね。ボルボは販売数が伸びているので、アフターフォローという意味でキャバオーバーしているところは見受けられますけれども。

____ちなみに社長がヨシノ自動車に入るきっかけは会長のお声がけだったんですか。

会長:私でしょうね。私は50歳の時に一度、心筋梗塞で倒れているんです。その時に生きるか死ぬかを経験したものですから、病院で入院している時に色々考えました。会社もそれなりに業績が良かったものですから、「次を育てておかないと従業員を路頭に迷わせかねないぞ」と。本人のタイミングもあり、 誘いました。しばらく2、3年はどんなところにも連れて行きました。皆さんに「息子を連れながらよく仕事ができるな」なんて言われましたよ。でも、私としてははやく経営に触れてほしいという気持ちがありました。

経営者の家に生まれて

____その時、社長はどんなことを感じられていましたか。

社長:当時、「自分が入って何かしよう」というような意気込みは全くありませんでした(笑)。ただ子どもの頃から、この会社の人達と、餅つきをしたり、釣りに行ったりということはあったので、親の会社に対する抵抗感も全くなかったんです。一緒にいることにも抵抗はありませんでした。周りからも「ご子息」「3代目」なんて言われていて、成長とともに少しずつその言葉の意味を理解していった感じです。だから将来は、なんとなく「継ぐんだろうな」と思っていたぐらいです。

____ちなみに会長は社長に経営学や、心得のような何かを教えたりはしていましたか。

会長:そういう教育はありませんでした。私の父親も中小企業の経営者ですし、彼も経営者の子どもとして育ってきているわけですからね。そもそも、与えられている環境があった。ひとつその中で願いがあったとすれば、自動車やトラックに関わる仕事でなくても「経営者であってほしい」という気持ちはありましたね。サラリーマンではなくて「経営者であってほしい」と。

社長:そうですね。それは学生の頃から「自動車やトラックでなくてもよい。経営者であってほしい」とは言われていました。 当時は、普段から接しているものではあるけれども、トラックに対する愛情やこだわりというものは僕にはなかったです。

____興味深いですね。ヨシノ自動車はそんな3代目でさらに花開いた感があります。

会長:周りからもそういう評価をいただいていますし、将来を見据えてこれからどうなるのだろうか、という期待もあります。それがお客様に望まれて、世の中のためになることであれば良いし、会社として存在価値のある会社であれば嬉しいなと思います。僕は経営者であってほしいとは思うけれども、 「儲かるからやるビジネス」をやって欲しいとは思わない。ここまで来るのも整備から始まって、レンタカーに至るまでお客様の要望に沿ったものだった訳ですからね。

会社のあらゆる業種がともに発展していくこと

____何でも良いとは言いながら、3代目の社長はよりトラックにこだわる経営者ですね(笑)。

社長:あははは。確かに写真家のプロダクションや、ライブハウスの経営などやろうと思えばどんな経営者にでもなれます。ただそれは憧れであって、自分で「自分は器用だ」とは思っていないし、どうしてもトラックというベースの中にある、その派生の中で事業展開をしていきたいという気持ちがあるんです。これは発想としては、自分でも守りの発想だと思っていますよ。

____いやいや。それはつまりシナジー効果を求めているということですよね。いろんな業種が関連して発展していくことを期待している。それは思うに、「不採算部門を廃止したくない」ということなのかな、と思うんです。会社全体でシナジー効果がある以上、不採算部門を簡単に切ることはできなくなりますよね。

社長:そうですね。僕は何でも始めたことはずっと続けていきたい性質なんです。良くも悪くもですね。輸出にしたって、何にしたって「この商売は儲かる」と思って始めた事業はひとつもないんです。

会長:私だって始めた事業が全部、最初からうまくいってるなんてことはなかったんですよ。例えば保険に派生して、来店型ショップを2店舗ぐらい出してみたんですが、5年でようやく借金を返済したという具合でしたし。新規ビジネスはやってみると難しいところがいっぱい見えてきました。本当に「車関連の保険だけ売ってれば良かったな」とか思いもしました。ただ、それはそういうお誘いに乗ってきたからなんですが、経営者は仕事をやっていく上で、いろんな話が入ってくる体勢を常に取っておかなければいけないとも思うんです。その中で選択肢をいくつか持っておかなければならない。そのアンテナを張っておかなければいけないんですね。

経営者はつねに選択できる環境に自分を置く

____経営者はいつも選択肢のある環境に、自分を置かなければいけない、ということですね。

会長:はい。それとお客さんでも伸び盛りの物流会社さんや建設会社さんというのはそのバイタリティがあるし、「いま時、こんな業態でやれるの?」というくらい昔からあるビジネスモデルであっても、まめに動いて成功している企業さんもある。そういうお客様とお取引できると我々自身も刺激を受けられます。その意味で、常に新しいお客様との出会いを求めていかなければいけないんですよね。

____それは企業の宿命ですね。

会長:社長がトライしている事業は、インターネット環境ありきのビジネスに移行しつつある。 我々の時代のように、「情報は足でつかむ」という時代ではなくなってきているのかもしれない。それは数字にもはっきり出てきているので、そこに「ヨシノ自動車の現在があるんだな」と思います。 ただひとつ言えることがあるとすれば、お金儲けというのは悪いことではないので、儲かるシステム作りはある程度しつつも 利益を消費することももちろんだし、社会に還元していくことも大事です。事業というのは、そういうことも必要なんです。もちろん納税することも大事ですけれど(笑)、 ビジネスとは違う面でも「私はこの会社と付き合ってるんですよ」と言っていただけるような会社づくりは、すごく大事だと思うんです。

人材難の時代に人材が集まる会社とは

____社長のおっしゃられている「共走」の考え方だったりですね。

会長:それは社内的にも「私はこの会社にいる」という意識をもたらしますし、家族も安心してくれる。もちろん私の世代からすると「ここまで情報公開しなくても」と思う点はあるけれど(笑)、家族も取引先も「こういう元気な会社と付き合っているんだ」という意識をもたらすことができます。

____やはりみずから「元気な会社になる」という考え方を、会長ご自身もお持ちでいらっしゃるんですね。

会長:そうですね。 実際、そういう効果や実感もあるんですよ。

社長:こうやって自社で CM を作ったりするのも(※文末にリンクあり)、面白そうだから、楽しそうで他がやっていないことをしたいからなんです。お客さんからしても「ウチがトラックを買っているところは変わってるんだよね」 と言ってもらえるだけでも、十分やる価値はあると思うんですね。

会長:この人材難と言われる時代においても、弊社には人材が集まってきてくれますからね。 この間、他のディーラー系の営業さんがいらした時に、「最近の若者は静かで」なんて話になるんですが、弊社の会議はうるさいぐらいですからね(笑)。

____確かに。「濃いキャラクター」はヨシノ自動車さんのイメージになりつつもあります(笑)。ではこれからの60年について、それぞれにお伺いしたいと思います。

会長:経営という意味で言うと、私にそのプランはないですね。雇用促進のために女性に優しいトラックを作っていくとか、環境は変わっていくでしょうけど、これだけ世の中が ドア・ツー・ドアで満足する時代に入ってきて、トラック物流が全くなくなることはないと思うんです。

次の60年に向けた経営と人材とは

社長:そうですね。私は「トラック物流は今後もなくならない」と思っているからこそ、この会社を継ぎました。そこに人が介在する限りはなくならないと思っています。弊社は良くも悪くも、どこかの資本提供を受けている会社ではないんです。今はトラックメーカーといえば日野、いすゞ UD ですが、10年後は EV 化が進んでいてパナソニックや日立なんてことになっているかもしれません。それこそテスラなんかが良い例ですよね。今後の10年、20年は実際のところ、全く分からないんです。ただ弊社が60年続いてきたということは、 トラックにずっと関わってきたからであり、どこかの資本が入ったとか、何かの専業会社になるとかではなくて、その市場環境に合わせてビジネスモデルを取ってきたからこそ続けてこれた、と言えます。時代の波を乗りこなしてきた姿勢とアクティビティを維持できれば、その先に未来があると言えるのではないでしょうか。だからこそ今、ヨシノ自動車の経営者としている私は、波を誰よりも先に見分けなければいけないと思っています。

____ただ社長も年齢を重ねれば、やはり後継者という話になるのではないでしょうか。

社長:そうなんです。実は1年前の会社の決起大会の時に、「僕もこれまで14年間やってきて、あと10年は時代の目先を見る体力もあるだろうと。ただ先は分からない」。そういうときに僕のセンサーが鈍ってしまって、一緒にヨシノ自動車が終わってしまうのであれば、それは皆様にとっても良くないことですよね、と。だからこそ「皆さんがここから10年、20年をかけて、それぞれ自分に合ったセンサーを磨いていってほしい」と頼みました。そうすることによって今持っている自分のセンサーよりも相乗効果で、さらにいい企業内循環ができるはずだから、と。まだ1年目ですが、今後はその社内的な循環を高めていきたいと思っています。 下手すると5年ぐらいで、僕に代わって経営を任せられるような人材が現れるかもしれない。それは絶対ゼロじゃないと思っているんですよ。

環境が人を育て、経営者はその環境を用意する

____確かにそうですね。

社長:これは会社としてもかなり意欲的な計画だと思うんですが、今年の2月から新入社員がウガンダに赴任しています。それまでもボランティアで、アフリカに滞在していた経験があり、去年9月に弊社に入社してきて、たった3ヶ月か4ヶ月ぐらいの社会人経験でアフリカに行ったんです。それで今年の7月ぐらいには現在のウガンダでトップを任せている人材が日本に帰国予定になっています。赴任したばかりの社員がその仕事を引き継ぎ、実質的にマネージングディレクターとして、アフリカでの仕事を任せようと考えています。もちろん後方支援は考えていますよ。インターネット会議も出来ますし、距離は現在ではそれほど問題ではありません。ただ去年に入社した当時の彼と、いまインターネット電話で会話を交わす彼の言葉づかいや知識がものすごく成長しているんですよ。環境が人を育てるということはすごく大きい。国は違えども、現場のトップとして彼に完全に仕事を任せられるようになったのだとすれば、人材育成において一つの素晴らしい結果になるだろうと考えています。

____環境が人を変える。そして経営者はその環境とチャンスを与える。やはり経営者は人材の成長というものが嬉しいものなんですね。

会長:それは、やはりそうでしょうね。

社長:僕にとってはそれが一番嬉しいです。会社を成長させるという意味で、売上を上げることは大事ですし、そこから利益を生み出すことは非常に大事です。だけど僕が経営者として一番喜びを感じるのは、人の成長を感じられた時ですね。それはたいしたことではなくていいんです。例えば新入社員1年目で、車を10台売ってくるなんてことはほぼありえないわけですよ。 売上は1台もないけれど、なぜかいつも行ってる運送会社の社長さんに気に入られて、月に一度、食事を奢ってもらっていると報告された方が「本当か! それはでかした」という気持ちになれるんです(笑)。その成長の結果、売上が上がればパーフェクトなわけですから。

中西昭博(なかにし あきひろ)
1950年1月24日生まれ
1972年 日野自動車販売株式会社入社
1978年 株式会社ヨシノ自動車 入社
1988年 代表取締役社長 就任
2008年 取締役会長 就任、現在に至る。

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