株式会社ヨシノ自動車

トラック業界”鍵人”訪問記 ~共に走ってみませんか?~ 第4回

株式会社花見台自動車 専務取締役
能條幹也 様

株式会社花見台自動車 専務取締役
能條幹也 様

「奇跡のパイオニア架装メーカー、花見台自動車を語ろう!」

世界で初めてとなるスライド型積載車両セフテーローダを開発し、架装メーカーのパイオニア企業として、その名をとどろかせている花見台自動車。もともと横浜市保土ヶ谷区の花見台から始まったそのチャレンジ精神に満ちた企業は、社長の能條健二氏とともに唯一無二の歴史を歩んできました。現在では福島県いわき市に本社をおき工場はフル稼働しています。第4回目となる今回は健二氏の実息であり、専務取締役の能條幹也氏にご登場いただきました。セフテーローダ開発秘話、経営破たんからの企業再生による復活、そして東日本大震災に見舞われながらも、架装メーカーのパイオニアカンパニーとしてその意気を失わないリアルな姿をうかがいました。

写真・薄井一議
デザイン・大島宏之
編集・青木雄介

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セフテーローダ誕生について


____最初にセフテーローダ誕生について教えていただけますか。

能條:もともとは横浜市保土ヶ谷区の花見台で自動車の修理板金業を営んでいました。5、6人で操業していたのですが、そのうち2人が顧客の車を引き取りに行ったり納車に行ったりすると仕事がどうしても止まってしまう。ですから一人で納車引き取りができたらいいなと考えたのがきっかけですね。昭和47年当時、スライドするホデーはないから、横浜の陸事でナンバーを取得するのに半年かかりました。それを自社で使っていたところ、「面白いからウチにも作ってくれないか」と引き合いがきたんです。はじめ5年は自動車修理板金業とセフテーローダ製造を並行して営んでいました。当時はトラックメーカーさんも、「シャーシを切るような改造するトラックには売れない」といってシャーシを売ってくれませんでした。それで自社でトラックを買って、改造もセットで現車販売をしていたんです。それも5年ぐらいで、やっと「シャーシに大きな影響を与えるものではない」と認識されて、ディーラー経由でボデーだけ架装することが可能になりました。昭和52年には架装が忙しくなってきたので、修理板金業はやめて架装を専業するようになったんです。

____面白いですね。花見台さんは会社の沿革を見ているだけで胸がわくわくしてきますよね。

中西:本当ですね。ドラマがありますよね。

花見台自動車 開発当初のセフテーローダ

花見台自動車 開発当初のセフテーローダ 開発当初のセフテーローダ(資料提供:花見台自動車様)

なぜ“いわき”だったのか?

____いわき市に移られた理由はどんな理由だったのでしょうか。

能條:移転するまでは横浜市の金沢区福浦で3工場体制でまわしていました。でも、どうしても手狭なのとトラックは架装待ちのヤードが必要で、敷地の多くをとられてしまうんですね。そこで移転を考えていたときに、このいわき市と裾野市が候補にあがったんです。裾野は近隣に人口があまりいないのが分かりました。移転したところで雇用が確保できない懸念があったんですね。その点、いわき市は仙台にも東京にも近いし、割合に地元への定着率も高いと聞きました。我々としては雪の懸念もあったのですが、太平洋側で雪も多くは降らないらしい、と。ちょうど常磐道も開通した当時だったので「いわきにしよう」と移転を決定しました。それが平成元年ですね。横浜は花見台で操業している頃からの固定のお客様も多いので、サービス工場と営業所は残しまして、いわきを生産工場にして本社もいわき市にしました。

たくましい花見台のパイオニア魂

____セフテーローダ以外にも、花見台自動車さんは革新的な新車種を作っていますよね。

能條:はい。セフテーローダトレーラですね。セフテーローダの製造で順調に操業していたのですが、大型の過積載が厳しくなってしまったのを契機にスライドする建機運搬トレーラーを作ったんです。トラクタ側にリフトカプラーがついてて荷台がスライドするタイプですね。あれは2年間で260台ぐらい売れました。

中西:2年間でそんなに売れたんですか! すごいですね。

能條:そうなんですよ。あの当時も納期待ちみたいな状態になりまして、25トン車の登場で除々に下火になっていきはしましたが、非常に人気を博しました。弊社はスライドボデー専業だし、大手さんみたいに営業マンも多くいないので商品力を武器にしないと、どうしようもないんですよ。だからとにかく新製品と開発に力をいれてここまできている状況なんです。

中西:やっぱりスライドボデーのセフテーローダといえば花見台って、一番最初に出てくる名前です。ヨシノも神奈川ですから、もともと花見台さんは知名度も高かったしシェアも高かったから、よく存じ上げてました。最近はとにかくセフテーローダ・ダンプが売れていますよね。 おそらく、1年待ち以上ですよね?

大盛況の花見台自動車。そのこだわりとは?

能條:おかげさまでそうなんですよ。これも昭和56年頃に開発した車種ですね。当時のいすゞ特装さんと花見台で共同開発で作りました。これも発売当時は関東地方で売れましたね。もともといすゞはダンプが強かったのもあるのですが、今でもセフテーローダ・ダンプはいすゞが多いですよね。これが現在、爆発的に売れてます。

中西:本当です。花見台さんの商品はどれも1年から2年待ちです。3トンのダンプとか小型を中心に東京や神奈川の土木建設業の方の引き合いが多いです。それには理由があって、それまでユンボを小型のダンプに積載して運んでいたものを、倒したりするケースがあって、労災事故になる可能性が高い。それだと施工主に迷惑がかかっちゃうので、セフテーローダ・ダンプの需要が高まっているんですよね。

能條:そうなんです。それとむかしは水道屋さんとか顧客は個人が多かったんですよ。近年、リース屋さんがセフテーローダ・ダンプと小型建機をセットでまとめてご発注といったケースが多いので、納期がどんどん後ろになってしまっているんですよね。

____ライバル会社はいないのですか?

能條:もちろんいます。ただ彼らはリース屋さんが中心で、月産100台ベースの大口のお客さんばかりです。その規模は、我々では対応できないんです。だから良い住み分けをしているんじゃないかなと思いますね(笑)。ただ花見台はパイオニアとしての自信がありますので、品質はどこにも負けません。花見台は開発するにあたって試行錯誤して、ものすごく失敗を重ねている訳ですよ。それを積み重ねてきている自信がありますので、

なぜ日本ではなく、海外へ発注されるのか

____車軸を韓国から輸入するということもあるそうですね。

能條:はい。トレーラーの車両を韓国から輸入しています。韓国のメーカーの良いところは、新しいこと考え続けている点ですね。そして常に軽量化を考えている。聞くところによると、韓国では耐久性をあまり重要視しないで6年か7年で車を替えちゃうらしいんですよ。でも日本はそうはいかないですよね。20年使うのが当たり前です。彼らはヨーロッパを見ているから最新の仕様を取り入れるのも早いですよね。聞けば、日本の運送屋さんも韓国に直接発注していたりするらしいですね。

中西:そうなんです。神奈川の重量物系の運送屋さんなんかは、直接韓国メーカーに行って2デフ用の後ろが12輪あるシャーシを特注で作っていたりしますよね。

能條:そうすれば並行輸入で入れられますものね。日本はブレーキ規制の問題なんかもあってテストを受けなければいけないですよね。だから日本のメーカーはやらないんですよ。正確にいうと、リスクを考えて新しいことをやれないんですよね。だから最近はお客さんが海外に行って直接交渉して輸入してしまうという傾向がありますよね。また特に韓国は韓国で輸出大国なので、積極的なんですよね。その点、日本は島国で守られているところもあるし、我々もそうですけど、この業界は外に出ていくということに消極的ですよね。海外の規格にあわせてシャーシを販売しようという機運には中々なりにくい。

中古車が世界で花見台を宣伝する

____ヨシノさんの仕事関係でも、そういう話は聞きますか。

中西:日本フルハ―フさんなどは海コンシャーシを中国で生産しているとは聞きますね。それは生産拠点を海外に移しているということで、輸出しているということではないですが。本来はその先に、中国を筆頭にアジアマーケットに輸出したいということらしいです。そもそも日本は人口1億3000万人なので、外を見なくても会社は成り立ってしまうという面はあるかも知れませんね。ヨシノ自動車も現状、日本で事業が成立しているという意味では海外に出る必要はないんですよ(笑)。ただ興味本位で「海外はどうなんだろう」というところがきっかけになっていたりします。

能條:最近面白い話がありまして、ニューカレドニアに中古ですが4トンのセフテーローダが行っていたらしいんです。「その代替えをしたい」という要望が現地からあったんですよ。だから海外規格のいすゞの4トン車に架装したんですよね。そういう話もありましたね。海外から部品が欲しいという話もいただきますね。

パイオニアだからこそ耐久性にはこだわりたい

____中古で輸出された花見台のセフテーローダが、世界中で花見台を宣伝しているんですね(笑)。素晴らしいことですね。

能條:花見台には部品科があって、過去の販売車両の部品も出せるものは出すんですけれど、なかには昭和62年のクルマの部品を求めてくる方もいらっしゃるんですよ。排ガス規制に絡んでない地域に住まわれている方とかは、まだ使われている方もいらっしゃるんですよね。そういうお客様は大事ですから出せる範囲で出そうと。30年も使っちゃうのか、と驚きながら(笑)。

中西:それはとりもなおさず「商品がすごい」ってことです。30年はすごい。

能條:耐久性の話に戻るんですけど、セフテーローダも特許が切れてからは拡土戦争ですよね。そもそも花見台が作り始めたものだから値段の基準はやっぱり花見台になるんです。そうするとライバル他社さんは、その基準より安価にしたいから曲材でくる訳です。なるべく安く、積載をとれるようにするんですね。我々が中古マーケットで人気があるのは、耐久性が支持されているんだと思うんですよね。弊社でも縞板の板厚2.3を使ったことがあったのですが、最後ベラベラになっちゃって「これはいけない」となって必ず3.2を使うようになったいきさつがあります。他にも曲材を使わずにチャンネルやアングルなどの骨鋼で組んで角をしっかり作っていたりするから、海外に出ても自分達でリペアが可能だったりするんです。だから海外でも花見台が人気というのは聞きましたね。

____その軽量化を是としない姿勢は、やはりパイオニアとしての自負ですか。

能條:はい。軽量化は課題です。でも、その軽量化は失敗でしたね。薄くしたことによって長年もたないし、これは良くないなと。軽量化の失敗でいうと25トン車でも同じことがありました。これがよく壊れましてね。確かに軽量化は考え続けなければいけないけど、耐用年数を考えると2、3年もったからいいだろうという訳にはいかないですよね。最低10年はもたないと。積載量も分かるけど、トラックはとにかく稼働することが大事です。稼働しなくなったら仕事にならないんですから。

家づくりに近い、花見台のトラック架装

____現在の花見台の月産台数を教えてください。

能條:月産で80台ぐらいですかね。そのうちダンプが40から50台ぐらい。セフテーローダはやはり納期の問題があって、自動車販売店向けはほとんど無いですね。だからロードサービスとかJAFさんとか仕様が細かいこだわりのお客さんが多いですね。やはり納期が先に来てしまうので。イメージがもう2年待ちとかになっちゃって、花見台イコール納期がかかるというイメージなんですよね。だから今のお客さんは待ってでも欲しい方ですよね。いずれにしても我々も納期を改善していきたいのですが、花見台の良さはお客様にお会いしてご希望に沿うように架装するところだと思うんですよね。設備屋さんでフックをとにかくたくさんつけるとか、ガッチャ類を盗まれないようにする工具箱を多く取り付けたいとか、ご要望が多ければ多いほど納期がかかる傾向はありますよね。比較的、簡単な仕様であればそんなにお待たせしないケースもある。そこはまちまちなんですよ。工場を見ていただくと分かりますが、4トン大型で同じ仕様はないんですよ。

中西:それは分かる気がしますね。

能條:住宅と変わらないですね(笑)。それぞれの間取りが違うように、それをひとつひとつ対応しているから花見台だとも思うんですよね。これは従業員にも常に言っているのですが、大手のように生産効率重視で「この仕様はできない」というのでは誰も振り向いてくれないはず。魅力がないと思うんですよ。だから多少待ってでも花見台と言っていただける。ちなみに現在、5年先までご注文を入れていただいてるお客様もいらっしゃいます(笑)。車検証で代替えの納期を逆算されていらっしゃるんですね。

中西:現在はハコモノも納期がかかってて、メーカー系ディーラーさんは完成車に力を入れています。全体的に納期がかかる傾向はある。でも5年先に注文を入れるというのはさすがに聞いたことがないですよ(笑)。

リーマンショック。そして民事再生法の適用

____花見台さんはいちど民事再生法の適用を受けていますね。

能條:はい。平成21年3月ですね。リーマンショックのときですが、国内需要が冷え込んでしまってセフテーローダも受注が半減していたんです。それとその前の年の春に海コンのシャーシコンテナが2軸じゃ対応しきれなくなってきて、業界をあげて3軸仕様にしたシャーシにしようという時代だったんですよね。弊社は連結全長を短くできるコブラネックという、独自開発したシャーシで、2軸で規格を通そうと考えていたんです。これなら2軸で24トン牽ける仕様にしたんですね。ところが業界的には3軸で一本化していたところだったので反発が強く、許可がなかなか下りなかったんですね。当時、解禁になった場合、その2軸のシャーシを買いたいというお客さんがとても多くいたもので、車軸と材料を見込みで買っちゃってたんですよね。

____最終的に許可はおりたのですか?

能條:おりました。伸びに伸びたその解禁時期は平成21年2月だったのですが、もうリーマンショックでどこも買えなくなっていました。我々は先行投資がたたってどうにも出来なくなってしまいました。その4月2日が手形の決済日だったので、そこまでにはどうしてもお金が必要になる。どうにかしなきゃいけない、というので民事再生法を申請することにしました。そこで3月30日に東京地裁に民事再生法を提出して、そこで事実上の倒産です。民事再生法を適用されることによって保全がかかるので、商品は持ってかれずに済みました。当時、負債が23億9000万です。民事再生ですから再建計画を作るのですが、リーマンショックの冷え込みと倒産のイメージダウンで注文はとれないだろうと我々は見てました。そしてその弁済案を作って裁判所に出したのですよ。民事再生法というのは200人債権者がいたらそのうちの半分か、23億9000万の半分、12億分の債権者が賛成してくれないと可決されないのですが、弊社は幸いにして90%の債権者の方々に賛成していただいたんです。

もちつ、もたれつだったあの頃のトラック業界

中西:90%ですか。それはすごい。

能條:やはり時期的にリーマンショックで冷え込んでいたし、それまでの業者さんたちとのお付き合いをご評価いただいたんだと思います。景気の良いときだと「花見台を支援してグループに入れてしまおう」とか、大手も考えたかも知れませんが、あの当時はどこもそれどころではなかったんですよね。どこか引き継いでくれるところがあれば部品の供給も出来るし、社員の生活も保証できるから、それはそれで良かったんですけれどもね。

____ヨシノ自動車さんもあの当時は厳しかったと聞きますが。

中西:はい。ちょうど社長交代した年の秋にリーマンショックがきたのですが、本当につらい時期でしたね(詳細は中西社長インタビュー)。

能條:あの時代は業界全体が本当に厳しかった。債権者の方々に回って説明をしているときも、きつく言われました。でも結局、どこも不景気だから「仕方ないね」と賛成していただいたんです。

東日本大震災とぎりぎりの判断

中西:うーん。興味深いですね。民事再生だけれど、自力での再建を果たされたんですね。それは珍しいケースですよね。

能條:そうなんですよ。珍しいとは思います。

____その後に東日本大震災がおこります。ここはいわき市ですから、被害もさぞかしひどかっただろうと想像するのですが、どんな様子だったか教えてもらえますか。

能條:工場それ自体は幸いにして倒壊などはありませんでした。まずは風評被害ですよね。ここは第一原発から近いので、クルマを預かってるお客さんが被ばくするからクルマを引き取りたいと言ってきたり、メーカーなんかは気にするところなんですが、当時第一原発から半径30キロ以内は立ち入り禁止になりましたよね。ここは41キロぐらいなんです。「強制避難が50キロになったらどうするんだ?」と言われて、あの頃はやぶれかぶれだったのかも知れません。「そのときは横浜で架装します」なんていい返してました(笑)。出来る訳ないんですけどね。

____ご自身も大変だったのではないですか。

能條:あの当時は、福島第一原発が爆発するなどの噂がインターネットを通じてどんどん流れて来ていて、判断がつかなくなっていましたね。初めは「テレビが大丈夫だって言ってるから大丈夫」って言っていたのですが、周りはどんどん避難していなくなっていくし、家族も不安がる。私たちも最終的には会津に避難しました。実際、あの事故もメルトダウンまで進行していた訳ですよね。私の父ですが、あらためて社長は行動力があって感心しましたね。横浜の実家から必要物資を持ってくると、工場で自炊するようにしたんですよ。皿がないから近所の青竹を切って皿にしたんです。物流が寸断されているからとにかくモノがなかった。そういう中、そうやって炊き出しをしたら社員はみんな喜んでくれましてね。

ひとつボタンをかけ違えていたら現在の花見台はない

中西:すごいですね。とにかく他にない架装メーカーさんですね。ひとえに社長である能條健二さんのカリスマ性というか、セフテーローダの開発に始まり、手に汗にぎるドラマがありますね。

能條:そうなんです。ひとつ何かボタンを違えていたら、現在の我々はないということばかりです。だからこそ我々は地道にお客さんを向いて仕事していくしかないなと思ってますよ。一回、死んでるようなものなので、中にはそこを受け入れていただけないお客さんもいると思いますが、受けれていただけるお客さんに個別に満足していただけるような仕事をしていかなければいけないなと感じています。規模的にこれ以上、拡大しようとも考えていません。それと同時に新しい製品を追い求め続けながら、改良しながら進化し続けなければいけないな、と。新製品を生み続けるパイオニアでありつづけたい。やっぱり製造業はそこをやらなきゃって思いますよね。

外国人研修生という可能性

____経営以外で、昨今のトラック業界で何か気になるところはありますか。

能條:最近、心配なのは労働人口減が気になってますね。というのも、今度現場に入ってくる新人が一人しかいないんです。たしかに18歳労働人口は減っているんだけれど、この近隣の企業はどこも取れていないらしいんですね。そこで昨年から弊社でもベトナム人の外国人研修生を受け入れています。非常にまじめですね。

____一定の職業訓練は受けているんでしょうか。

能條:そうですね。ベトナムの職業訓練校を卒業しているようなイメージですね。

中西:研修生はそうですよね。ここ最近は彼らも技術力をつけてきています。向こうで卒業して、こちらでは中途の経験者採用というイメージでしょうか。ビザがとれて3年。整備業界だと就労ビザが整備士も対象になったので最長5年になるんですよ。弊社でも来月からベトナム人を2人入れるのですが、彼らの場合はまず日本語学校に行って日本語検定2級をとって、その後に日本の整備学校に行っているんですよ。だから彼らが働きたいだけ日本にいれるんですよ。10年なら10年ですね。今回採用した2人のうち1人は10年やったらベトナムに帰って自分の整備工場を持ちたいと。もう1人はそのまま日本でずっと生活していきたいと考えているようです。

ドライバーがいないから、トラックが買えないという現実

能條:弊社の研修生は1年経ったら日本語検定と技術検定を受けなければいけない。第一弾は溶接で入れているので溶接の技術検定を受けて、それに受からないと強制的に帰国させられちゃいます。ただ感心するんですが、まじめですよね。残業はしてくれるし、休日出勤も嫌がらない。目標が3年で300万円貯めたいらしいんです。彼らのハングリー精神を見るにつけ、日本はこのまま衰退していってしまうのじゃないかと心配になるんです。

中西:本当にそうですよね。外国人労働者のビザ緩和がどんどん普通になってくるとすると、これからトラックドライバーにも外国人労働者が就労するようになるかも知れないですよね。そこで優秀でやる気もある人材が市場に入ってくると、これまでただ何となく職業についてた人たちがどんどん取り残されていくと思いますね。

能條:はい。ヤマトさんなんかでも言ってるドライバー不足ですけど、あれも心配なんですよ。これは私の見込みなんですが、この先を考えても建機運搬の仕事が大きく減ることはないでしょう。ただ心配なのは仕事はあるけど、ドライバーがいないからトラックを買う必要がないというケースですね。

中西:それはもう現実になってますね。弊社の営業の中でリース枠もトラックも仕事もある。あともうひとつ運転手も欲しいと(笑)。運転手3人紹介してくれるなら3台買うし5人紹介してくれるなら5台買うしというお客さんは少なくとも神奈川は多いです。

能條 幹也(のうじょう みきや)
1968年8月13日生まれ。1992年3月 湘南工科大学 機械工学科卒業。同年4月日本フルハーフ株式会社入社。1995年9月 株式会社花見台自動車 入社。2006年4月 専務取締役就任。現在に至る。

>>花見台自動車HP

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